「坐禅和讃」 原文と現代語訳
746 :アル:2011/01/21(金) 20:23:59 ID:DoPMi5Pk0

こんばんわ。私は現在禅寺に通っているものです。
禅寺では1時間ぐらい座禅して30分ぐらい和尚の説教を聴きます。
そして毎日和尚が話される「坐禅和讃」が「執着」について話してたので原文と現代語訳を
載せますので参考にしてみてください。

坐禅和讃(原文)

衆生本来仏なり  
水と氷のごとくにて
水を離れて氷なく  
衆生の外(ほか)に仏なし

衆生近きを知らずして  
遠く求むるはかなさよ
譬(たと)えば水の中に居て  
渇を叫ぶがごときなり
長者の家の子となりて  
貧里に迷うに異ならず

六趣輪廻の因縁は  
己が愚痴の闇路なり
闇路に闇路を踏み添えて  
いつか生死を離るべき

それ摩訶衍(まかえん)の禅定は  
称嘆するに余りあり
布施や持戒の諸波羅密  
念仏懺悔修行等
その品多き諸善行  
皆この中(うち)に帰するなり

一座の功をなす人も  
積みし無量の罪ほろぶ
悪趣何処(あくしゅいずく)に有りぬべき  
浄土即ち遠からず
かたじけなくもこの此の法(のり)を  
一たび耳に触るる時
讃嘆随喜(さんたんずいき)する人は  
福を得ること限りなし
いわんや自ら回向して  
直(じき)に自性を証すれば
自性即ち無性にて  
すでに戯論(けろん)を離れたり

因果一如の門ひらけ  
無二無三の道直し
無想の相を相として  
往くも帰るもよそならず
無念の念を念として  
歌うも舞うも法(のり)の声
三昧無碍(ざんまいむげ)の空ひろく  
四智円明(しちえんみょう)の月冴えん

この時何をか求むべき 
寂滅現前する故に
当処(とうしょ)即ち蓮華国  
この身即ち仏なり



747 :アル:2011/01/21(金) 20:24:54 ID:DoPMi5Pk0

坐禅和讃(現代語訳)

「人」は、本来、「仏」なのです。「氷」と「水」の関係のように
水を離れて氷がないように「人」の心の中以外に「仏」はありません

「仏」は「人」の心の中に存在してるのに、どこか遠くに「仏」を求めるのは、はかない事です。
例えば、水の中にいて、乾きを叫ぶようなものです。
金持ちの子に生まれ、お金が無いと迷うのと同じです。

人の心は、地獄、修羅、餓鬼、畜生、人間、天国の六つの心境をさ迷います。
でも、その大元はアナタ自身の愚痴が始まりなのです。
その、同じあやまちの繰り返しから、いつか離れなければいけません。

大乗仏教の「禅定」は、褒め称えるにはあまりあります。
布施や持戒のもろもろの行い、念仏、懺悔の修行などの
沢山の善行も、全て「禅定」に帰します。

一回だけの座禅でも、今まで犯した罪はなくなります。
そもそも、罪など何処にもないし、浄土は遠くはないのです。
アナタが人として生まれこの「仏法」を、一度でも聞いて感涙する人は、
必ず本当に幸せをつかみます。

ましてや自分をかえりみて、自分の心の正体を知れば
自分の「心」の正体は「無性」なのだから、もう、すでに下らない論理を離れてます。

アナタが生まれ苦しむ理由を本当に知りなさい、自分だけが悟って満足してる道を直し。
心とはそもそも「無相」です、その「相」を忘れずに、天国に行くも地獄から帰るも
たいした問題ではないのです。

アナタの心が執着から離れれば、歌う時も舞う時も本当のアナタなりに自然に出来ます。
アナタの心の中にある、何のこだわりも無い空に、本当の智慧が月のように輝きます。

その時に何かを求めるべきです、心の汚れは必ず燃え尽きるのだから。
今、アナタが生きてるこの世が浄土なのです、そう思えた時にアナタ自身が「仏」なんです。


2011.08.08