間違った観念に気付けばそこで終わり、とはどういう事か 「創造主の立場という自覚」
731 名前:幸せな名無しさん 投稿日:2011/09/29(木) 07:35:27 ID:.HBDkoxQ0

桑田さんブログのさ、
>「そうか、俺は牛丼が食えない世界を何だか知らないが創っていたのか」と
気付けばそれで終わりです。


ってこういうの良く聞くんだよ、気付けばそれでOKみたいな。
でもさ、気付いた→だからといって状況変わらず が延々繰り返されてる人多いと思うんだけどどうかな。
気付いただけで状況があっという間に好転、あ~ら不思議♪みたいな都合の良い人っているんだろうか。



735 名前:幸せな名無しさん 投稿日:2011/09/29(木) 09:26:50 ID:oAxr6/EA0

>>731
気づくっていうのはさ、「現状に対するリアクション装置になってること」に気づいて、
「自分はリアクション装置ではなくて創造する立場だった」ということを自覚する、
それが本来の自分だった、と源泉の位置に戻るんだよ。

そこはすべてがあるので、そこから自分の好きなものを選べる。

だから、「気付いた→だからといって状況変わらず・・・」となるのは、
せっかくリアクション装置になってることに気づいたのに、
創造できる立場に戻らずに、まだリアクション装置でい続けてる。
だから状況変わらずなんだ。

先に変わるのは状況のほうじゃなくて、あなたの立場のほうなんだよ。

状況がどうであろうと、源泉にいる自分に対して「それでいいんだ」と安心できる立場なんだ。

最初のうちはいわゆるタイムラグのように、気づいた瞬間状況が変化する、
までは行かないことが多いと思う。それはまだまだ自分の中に信頼が足らないから。
自分の気づきに信頼が増せば増すほど、不思議なくらい状況は変化するよ。


772 名前:幸せな名無しさん 投稿日:2011/09/29(木) 13:57:08 ID:H3cTVJMw0

>>735
とても分かりやすい!
自分もその辺とても知りたいです。
気づく、までは出来るようになったんです。
今まで自分は一人だけと思っていたけど、実は感情やらで暴れてる自分と
それを冷静に見てる自分がいる。

それが分かっただけでも自分は進歩なんですが、
気づいた立場から選ぶという感覚がまだよく分かりません。
もう少し、選ぶ、という感覚についてお聞きしてみたいです。
よろしくおねがいします。



824 名前:幸せな名無しさん 投稿日:2011/09/30(金) 10:55:32 ID:dr41pA0I0

>>772
言葉で書くと「選ぶ」となるけど、本当は選ぶ必要さえないわけ。
なんだけど、それだけで終わるとなんなんで長文投下。

>>731に遡るけど「気づくだけでいい」「気付けばそれで終わり」っていうのは、
気づくことでリアクション装置から創造主である自分を自覚するという意味。

で、本当に自分が創造できるんだということが心底腑に落ちてると、
「どうこうしよう」とか「なにかをする」というエゴ的発想に向かわなくなる。
エゴ的発想というのは、「自分で何とかする」というのが前提の発想のこと。

つまり、自分から「叶えるために」何か行動をしようとしなくても、
右を選んでも左を選んでも、またはどちらも選ばなかったとしてもどれもが正解っていう次元になる。
なぜなら自分が創造主、すべての権限を持った存在だから自分が選んだものが正解。

自分が選んだものに従って、現実のほうが辻褄を合わせてくれるわけ。
だから気が向くままに行動してもしなくても、そんなことに関係なく実現する。

これが選べる立場に立つということであり、同時に、選ぶ「必要性」はなく、
好きなことするだけで「選ぼう」としなくとも自然にそうなってるという立場。
物理的な物や行為を選んだり決定する時であれ、自分が心地よく感じるものを指針として
思考ではなく感性で選べるようになる。

一番大切なのは、「自分がすべての権限を持ってる」という自覚、主体性。

そこさえ押さえておけば、「何を選べば叶うか」という視点ではなく、
「どれを選んでもどうせ叶うんだから好きなことしよ」となる。

で、>>766にもつながるけど、
766 名前:幸せな名無しさん 投稿日:2011/09/29(木) 13:34:20 ID:oAxr6/EA0

>>703
ずっと自分を無視して自分以外のものを見続けてきたんだな、ということにやっと気づいて、
「自分を大切にしていいんだ」ということに気づけたんだよね?

でもまた今「何かする」という自分以外の対象を見ようとしてるんじゃない?
それは見つけようとするものではなくて、自分の中から湧き上がってくるものなんだよ。
だから自分に意識を注ぎ続けてたら、自然と見つかるものなんだよ。
まだしーーーんとしてるなら、もっと愛を注いであげなよ。

無を見つめてるのが不安なのかも、とかむなしさや悔しさを感じたと書いてるけど、
それだと自愛的にはまだまだなんじゃないかな。
もっと自分を愛してあげたら、もっと自分を好きになって心地よくなれるはずだよ。
そしたらやりたいことがどんどん沸いて出てくるよ。

欲しいものがあるなら「それを手に入れた自分」で在ればいいし、
特定の願望がない場合は、創造主である自分として「在りたい自分」でいればいい。

これは前者がクレ式、後者が自己観察式。

ちなみにクレ式でうまくいかない人の殆どは、
前提が「創造主としてのすべての権限を持ってる自分」ではなく、
「目の前の現象のほうに決定権を明け渡してるリアクション装置である自分」として
なりたい自分になろうとしてる人だと思う。

「在りたい自分」でいるというのは、上と重複するが
単純に自分が心地よく感じることをする(選ぶ)ということ。


それは今この瞬間の自分の感情を、現象次第で快になったり不快になったりするのではなく、
かといって、「常に快でいよう」とするようなものでもなく、快でいようが不快を感じていようが
まったく関係なく、ありのままの自分であればいいということ。

怒りたければ怒ればいいし、泣きたければ泣けばいい。
何の制限もなく、ありのままでいられることこそが
最高に心地よいことなのではないだろうか。

どういうことかというと、現象に左右されて快、不快になってしまうというのは、
現象ありきの受身反応的な感情。

「常に快」というのは「快でいなくては実現しない」という条件付け。
「快不快もまったく関係ない」というのは、感情がどうであろうが完全な決定権は自分自身にある。
感情のように通り過ぎて行く不確かなものではなく、普遍、不動の自分に
すべての権限があるということ。


825 名前:幸せな名無しさん 投稿日:2011/09/30(金) 10:56:03 ID:dr41pA0I0

ちょっと矛盾を感じるかもしれないが、つまり最終的には
「自分に権限がある」という主体性があるかどうか。
その認識なく現象に反応するのと、その認識の上で同じように現象に反応するのとでは、
行為としては同じでも、現象に影響及ぼす意識のレベルではまったく異なる。

たとえ不快になっていても「叶わないかもしれない不安」が一切なく
「叶ってる」「どうせ叶う」が前提だから。


それと感情、観念といったものは自分ではないということ。
「私の」観念「私の」感情というように「私の」ものということは自分自身ではないということ。
自分自身の在り方(創造主であることの自覚)だけが、現実を決定するものです。

今まで感情や観念その他の「自分以外のもの」に現象の決定権を与えていたということ。
それを自分に取り戻すということ。


創造主とか自分に権限が~と書いてあるが、これもあえて
言葉として表現する上でのことなので、ニュアンスとして読み取って欲しい。

要するにすべては関係していないが、「私が生きている」という幻想から
すべては始まってるので、その「私」がこの世界を最大限に楽しもう!と決めて
たった今そう在れば、世界はそうなるというだけ。
というわけで、何もする必要はない。

とはいえ、自愛で自分を愛するということも、「生きてることを楽しもう」に行き着くし、
自己観察的に源泉の意識を持つことも同じようなものなので、そういったことを通して
段階を経ながら自覚していくこともいいし、それも自分の「心地よさ」を基準にしてれば間違えない。

こういう場で言うのもなんだけど、「わからない」「達人さん教えて」的な自分の心的態度が、
自分以外に権限を明け渡している以外の何物でもなく、そこでループしてる限り
なかなか突破口はみつからない。

「わかれば変われる」ではなく、実現も理解も後からついてくるものだから。
そこを改めるだけでもずいぶん変わると思う。


2012.11.06