146 : 幸せな名無しさん :2015/03/31(火) 00:27:40 2s9HWCEc0
達人さん、教えてください。
私が思うに「世界=自分」を体感する(腑に落とす)のが肝だと感じているのですが
「世界=自分」を実感するにはどうしたらよいのでしょう?
皆さんはどうやって「世界=自分」に気づきましたか?
149 : 幸せな名無しさん :2015/03/31(火) 07:32:51 DBc/7y5A0
>>146
自分もまったく同じ結論に至り色々と理論を考えてみまして、
ああこういうものなのかという頭での理解は得たのですが、
実感としてはまだまだなので、あんまり参考にはならないかもしれませんが…
まずは自分というものについて考えてみるのがよろしいかと思います。
私たちは常に外部のなんらかの刺激に対して反応しつつ生きています。
この反応の部分が肝で、それが私たちが自分の意思で行っていると
思っている部分なわけです。
ですが実際はあらゆる制約、蓄積された観念、知識、
そういった諸々のファクターによって導きだされた唯一の答えが
反応として表出し、私たちの行動や思考となって現れてきています。
私たちは自由意思を持つ自分という存在が自由に、時にきまぐれに
行動を選択していると思いがちですが、実は必然なわけです。
ここで、それでは自分の意思だとか願望だとか、そういったものは
どのようにして生まれたのだろうかと考えますと、それは先ほど申した通り、
自分以外の外的要因がファクターとして機能しています。
平たく言うと自分以外の世界です。
それはよく桑田さんが例としてあげられる海と波の関係に似ています。
波というものはそれ自身が生起し、運動し、消滅するその過程において
全て海流、あるいは気流といった外的要因に依存しています。
つまり、世界に動かされている。
私たちもそうなのです。
私たちも世界の大きな流れの中で翻弄される波のような存在です。
大海に翻弄される中でそれに対処しようと様々な苦悩や葛藤が生まれ、
自分が苦しんでいます。
しかし私たちには何の責任もありません。
私たちが原因でないのですから。
世界が私たちを創り、また私たちを苦しめる
様々な原因も世界が創り出している。
それに何の責任もないのだとすれば、
勝手に苦しみというものが生まれ、勝手に悩みが生まれているだけです。
それは観念や知識といった私たちの構成物にも同じことが言えます。
私たちを構成する全てのものは始めから世界によって、
また世界による責任で作り出されていたのです。
それをあえて私と世界というように区分する必要があったのでしょうか?
私もまだ完全な実感は得ていないのですが、以上のように考えますと、
自分には何の力もなく確固たる存在感もないのだ、と気づいていくことが
逆説的に私=世界の認識に近づいていくことなのではないかと、
そういうふうに思っています。
長文拙文失礼しました。
150 : 幸せな名無しさん :2015/03/31(火) 17:37:01 zZtlEbTY0
>>146
>>149さんと同じようなことかもしれませんが、
五感含め思考や感情に自分のものだという属性がついたときに
それはエゴとなり偽りの自分を創り上げます。
思考や感情のみならず、五感も自らが創り上げたものかもしれないと
思ったとき、世界=自分の理解が少し進んだのかなと思います。
つまり、思考や感情が自分であるならば見えているもの、
聞こえるもの、感じるものも全て自分といえるのではないか
ということです。
五感を使って世界を把握している自分がいる、
というのはエゴに曇らされた偽りの認識だったのです。
156 : 146 :2015/04/01(水) 10:02:11 CHGzu9gE0
皆様、レスありがとうございます。
いろいろと考えさせられました。
自由意思は無い。
それも何となく感じてはいますが、
まだ腑に落ちるには至っていません。
「世界=自分」それ自体に定義なんて無く、
自分で感じるしかないのだと今は思っています。
>>154さんの仰るとおり、答えは自分の中にあるのでしょうね。
突き詰めるより、今は一瞬一瞬を丁寧に大切に生きる事を、
まずはしてみようと思います。
達人さん、教えてください。
私が思うに「世界=自分」を体感する(腑に落とす)のが肝だと感じているのですが
「世界=自分」を実感するにはどうしたらよいのでしょう?
皆さんはどうやって「世界=自分」に気づきましたか?
149 : 幸せな名無しさん :2015/03/31(火) 07:32:51 DBc/7y5A0
>>146
自分もまったく同じ結論に至り色々と理論を考えてみまして、
ああこういうものなのかという頭での理解は得たのですが、
実感としてはまだまだなので、あんまり参考にはならないかもしれませんが…
まずは自分というものについて考えてみるのがよろしいかと思います。
私たちは常に外部のなんらかの刺激に対して反応しつつ生きています。
この反応の部分が肝で、それが私たちが自分の意思で行っていると
思っている部分なわけです。
ですが実際はあらゆる制約、蓄積された観念、知識、
そういった諸々のファクターによって導きだされた唯一の答えが
反応として表出し、私たちの行動や思考となって現れてきています。
私たちは自由意思を持つ自分という存在が自由に、時にきまぐれに
行動を選択していると思いがちですが、実は必然なわけです。
ここで、それでは自分の意思だとか願望だとか、そういったものは
どのようにして生まれたのだろうかと考えますと、それは先ほど申した通り、
自分以外の外的要因がファクターとして機能しています。
平たく言うと自分以外の世界です。
それはよく桑田さんが例としてあげられる海と波の関係に似ています。
波というものはそれ自身が生起し、運動し、消滅するその過程において
全て海流、あるいは気流といった外的要因に依存しています。
つまり、世界に動かされている。
私たちもそうなのです。
私たちも世界の大きな流れの中で翻弄される波のような存在です。
大海に翻弄される中でそれに対処しようと様々な苦悩や葛藤が生まれ、
自分が苦しんでいます。
しかし私たちには何の責任もありません。
私たちが原因でないのですから。
世界が私たちを創り、また私たちを苦しめる
様々な原因も世界が創り出している。
それに何の責任もないのだとすれば、
勝手に苦しみというものが生まれ、勝手に悩みが生まれているだけです。
それは観念や知識といった私たちの構成物にも同じことが言えます。
私たちを構成する全てのものは始めから世界によって、
また世界による責任で作り出されていたのです。
それをあえて私と世界というように区分する必要があったのでしょうか?
私もまだ完全な実感は得ていないのですが、以上のように考えますと、
自分には何の力もなく確固たる存在感もないのだ、と気づいていくことが
逆説的に私=世界の認識に近づいていくことなのではないかと、
そういうふうに思っています。
長文拙文失礼しました。
150 : 幸せな名無しさん :2015/03/31(火) 17:37:01 zZtlEbTY0
>>146
>>149さんと同じようなことかもしれませんが、
五感含め思考や感情に自分のものだという属性がついたときに
それはエゴとなり偽りの自分を創り上げます。
思考や感情のみならず、五感も自らが創り上げたものかもしれないと
思ったとき、世界=自分の理解が少し進んだのかなと思います。
つまり、思考や感情が自分であるならば見えているもの、
聞こえるもの、感じるものも全て自分といえるのではないか
ということです。
五感を使って世界を把握している自分がいる、
というのはエゴに曇らされた偽りの認識だったのです。
156 : 146 :2015/04/01(水) 10:02:11 CHGzu9gE0
皆様、レスありがとうございます。
いろいろと考えさせられました。
自由意思は無い。
それも何となく感じてはいますが、
まだ腑に落ちるには至っていません。
「世界=自分」それ自体に定義なんて無く、
自分で感じるしかないのだと今は思っています。
>>154さんの仰るとおり、答えは自分の中にあるのでしょうね。
突き詰めるより、今は一瞬一瞬を丁寧に大切に生きる事を、
まずはしてみようと思います。
2021.03.17